「私たち」のこれから

須賀です。

アメリカ大統領選挙の報道で
「分断」という言葉をよく見かけますよね。

ちょっと前からは「二極化」という言葉を目にします。

そして、「多様性」はますます一般的になってきています。

LGBTQって、どんどん増えていく印象がありますが、
多様性という言葉の意味を理解していけば、
これらの略語はどんどん不要になっていくはず。

どうしてこうなるのか?というと、
主語が「私は」だから、というのもあるのでは?

私は、貧困の中で生きていかなければならない。
私は、差別されている。
私は、我慢を強いられている。
そんな感じ。

「私」が社会でより生きやすくなるように
社会のほうが変わっていってほしい。
そういった不満や怒りがあるとも考えられる。

でね、今日は目線を変えてみてはどうか?と。

主語を「私たち」に変えるとどうなるのか?

なんか、変な感じがしませんか?
「私たち」ってどこまでを指すでしょう?

あなたにとっての範囲はどうでしょう?
広くても狭くてもいいと思うのですが、
最終的には「全人類」に落ち着きませんか?

異論はあるかもしれませんが、
今回の設定ではこのまま先に進みましょう。

人類はみな兄弟ですから、
みんな=私たち=全人類が社会で、地球上で
生きやすくなるようにどうすればいいのか?

いきなり壮大な話になってしまったと感じるかもしれません。
ま、たまには思考実験として、良しとしてください。

僕の考えでは
“地球上の人口を最適化する”
というのがポイントだと思っています。

つまり、今、地球上に住んでいる人の数が
多すぎること、また、場所によって偏っていることが
問題だってこと。

これをうまいこと調整していくといいんじゃないかと。

どうやって?という、具体的なアプローチは
まだわかりませんけどね。

ただ、増えすぎているところは減らし、
減っているところは増やしましょう、ということ。

多様性をバランスよく取り入れていく。
人種や文化などいろんな側面で。

日本は少子高齢化社会。
だとしたら、なるべく子どもが産まれるように、
いろんなケアが手厚くなるように進んでいってほしいもの。

これは政府がどうこうというだけではなく、
隣近所とかのコミュニティのつながりの話でも
あったりするのかもしれません。

核家族化を進めた政府が少子化対策とか言うのは
なんだかおかしいんですけど、まあ、場当たり的な
やり方だったのでしょうね。

それもしかたがないのです。
資本主義経済ですから、消費者の数が増えないことには
経済が成り立っていかないわけで。

中国の一人っ子政策もいつの間にか聞かなくなりましたし、
モノを買う人、特に購買意欲の高い若者が増えるように、
あれこれ手を打っていくのが資本主義、のはず。

日本では少子化対策って言葉は聞きますが、
実体はないんでしょうかねぇ。
身近な例で最近痛感しましたけど…

話がちょっとそれましたけど、
地球の人口を最適化することなんです。

そうすれば、食糧難とかありえません。
昆虫食?そんなバカなという感じです。
(長野の一部の方を否定するものではありません)

環境破壊?原発の新設?とかそういうもろもろ、
「多くの人にとって、より便利な生活」のためと
考えられているいろんなもの、実は不要。

資源は有限なんだから、それを分け合う人たちの
人数制限だってあると考えるほうが自然では?

持続可能、サステナビリティって言葉もじわじわと
広がってきてますけど、多くの人にとっては、
これは「自分ごと」になりません。

ここが難しいところ。

「自分が死んだ後の地球がどうなろうと、
 知ったこっちゃないぜ!」
というスタンスの人に、こういう話をしても、
絶対に通じません。笑

だとしたら、そういう大人を相手にするのは、
はっきり言うと、時間のムダ。

そこで、どうするのか?

やはり、子どもたちへの「教育」ですかね。

ただ、何を教えたらいいのか?も大事ですが、
教育する親世代が何を理解しておいたほうがいいか?
が、ポイントの気がします。

「教育は国家百年の大計」ってのもありますけど、
今の子どもたちに直接なにかを伝えることも大事として、
その親世代、祖父母世代に伝えることと、また同時に、
うまくブロックするのも重要だったりするんですよねぇ。
(情報が更新されてない世代もいるわけで…)

おばあちゃんの知恵って言葉がありますが、
どの世代のおばあちゃんの知恵なのか?というのは
考える必要があるでしょう。

団塊世代のおばあちゃんの知恵だと、
みのもんたのTV番組がソースだったりもして…

どんな教育が必要なのか?については、
またの機会に。

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