須賀です。
真理に辿りつきたい、と思いますか?
もし、ちょっとでも思うなら、
科学者か弁護士になる必要があります。
なにも、その職業に就け、ということでは
ありません。
ふたつのアプローチがある、ということ。
科学者のアプローチは、
・証拠を集め
・規則性を探し
・観察結果を説明できる理論をつくって
・それを検証する
というもの。
対して、弁護士のアプローチは、
・他の人たちを納得させたい結論からスタート
・それを裏づける証拠を探し
・同時にそれに反する証拠を斥ける
というもの。
科学者は客観的事実を重要視し、
弁護士は目的を重要視しています。
どちらがいい、という話ではありません。
人間の脳は、場合によってどちらも使っている。
で、どちらが多いか?というと、弁護士だそう。
もうちょっと具体的に言うとですね、
人は決断したあとで、それが正しいとする
証拠を見つけるのが得意、ということ。
理由を後づけででっち上げるのと似ています。
この流れ、自己像を描くときも同じだそう。
人は自己像を描くとき、
・無意識で現実と錯覚を混ぜ合わせて
・自分の強さを強調して弱さを隠し
・ピカソの絵のようにいろいろ歪めて
・自分が気に入っている部分を膨らませて
・他の部分は小さく、見えなくする
というプロセスになる。
自己評価が低い場合も同じでしょう。
自己評価が低い人って、その低い評価で生きるのが
現実では「楽」で、慣れているので、
上とは逆に強さを過小評価して、
弱さによりフォーカスを当てている。
だとすると、どうなるのか?
現実に対する認識が歪むのですね。
楽観的な人はより楽観的になり、
悲観的な人はより悲観的になる。
どちらも必要以上になってしまう。
楽観的な人は納期に甘くなるし、
悲観的な人はやたら早く出してくる、
みたいなことが起きるわけ。
また、身内や自分の所属しているグループには
甘くなるけど、それ以外には厳しくなる。
もちろん、それがプラスに働くこともある。
でも、いずれにしても現実を歪んで捉えている、
という意識があるかないか?で、自分自身の
客観性を見直すこともときには必要かも。
ただ、このプロセス、人が幸せを感じるには
とても役に立っていると考えられます。
この曖昧さが、本来は異論の余地がない
真理の中に逃げ道を作ってくれるのです。
無意識はその逃げ道を使って、自分自身や
他人の周囲の環境に関する「物語」を
想像で組み立てる。
そうすると、逆境の中でも最善を尽くし、
幸せなときには自分を高めて、苦しいときには
慰めることができる。
人の意識、無意識って、よくできてるのですね。
では、また。
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