ヒエラルキーの次の段階

須賀です。

19世紀後半に書かれたもので、
「コピーライティングの教典」的に
信奉されている文書があります。

影響力が強すぎて弾圧され、
発禁扱いにもなったもの
だと思います。

よく聞く「ピアノコピー」よりも
ずっと以前にあったものです。

その文書、第一章は、こう始まります。

・・・
在来一切の社会の歴史は、階級闘争の歴史である。
・・・

かなりざっくりと言えば、
この社会は支配者層がいて、
それに従属する人々がいる、
わけですよね。

階級闘争、なので、
階級の上下で戦いがある。

下側にいる自分たちはこんなに苦しんでいけど、
上側にいる奴等は贅沢で好き勝手している、
こんな仕組みをどうにかしよう!
世界をひっくり返すんだ!みたいな感じです。

実際、歴史上はそうだったと思いますし、
現代もそういう様相があると思います。

アメリカが、GAFAが、安倍さん、麻生さんが、
転売で儲けた奴等があーだこーだと言う。

それがいいとか悪いとかではありません。

昔からずっと、こういう対立構造で
話をするほうが、みんな理解しやすい、
という話なんです。

これが発達の段階に組み込まれているので。

なので、勇気を持って体制に「批判」を
声に出すほど、支持を集めやすくなる。

だからこそ、上で紹介した「教典」では
対立、闘争を冒頭で強調し、そして、
世界的な運動に拡がったと考えられる。

この図式は「共通の敵」を設定する、
というマーケティングの基本テクニックとして
現在でも広く使われているものです。

ただ、対立構造ではうまくいきません。
(短期的に注目を集めるのはたしかですが)

対立に負けた側が「復讐」を胸にし、
それこそ必死の行動をするようになる。

対立は、相手の火に油を注ぐようなもの。

支配権を求める戦いは終わりがない。

これがヒエラルキーの限界。
「より良い社会の実現を!」的に、
ピラミッドの上下を入れ替えるような活動。

さらには、ピラミッド構造をなくして
ひとりひとりが平等で価値がある、みたいな
ヘテラーキーというのでしょうか?
平らにならされた社会が理想だと考える人もいます。

これはこれで理解できます。
すべての命は平等に価値がある、はず。

なので、恵まれない子どもに、とか、
自然環境の破壊で動物たちが、とか、
そういう活動が生まれてくる。

ただ、トリアージというのありまして、
昨今のイタリアで起きている新型ウイルスへの
対応を考えるとき、どうしようか?
ってのもあるのですね。

で、ここからさらに踏み込むと、
「ホラーキー」ってのがあるんです。

ティール組織って言葉が流行って、
それを基にしたホラクラシーっていう
組織、コミュニティの作り方が注目されて
いるのです。

人それぞれ長所、強みが違うのだから、
階級とか役職とかを基準にしないで
個人の能力を活かして、コミュニティの
運営をよりスムーズにしよう、みたいな。

なんでそれがいいのか?

人それぞれで「発達の段階」が違うからです。

実際のところは、知識やスキル、経験は、
みんな同じじゃないでしょ?

なので、ヘテラーキーみたいな、みんな同じ、
は成り立たないのはもちろん、ヒエラルキーの
年功序列的、力のある順の序列でもない。

ホラーキー、ホラクラシーの「ホラ」の部分、
元は「ホロン」という言葉なんです。

「ホロン」は、部分であり全体である、
という哲学的な意味の単語で、要は、
部分がたくさん、大きくなると、全体も
大きくなる。(説明をかなり端折ってます)

社会をより良くするアイデアを考えるとき、
3歳児30人のアイデアよりも、
30歳の3人のアイデアのほうが、
より適したものの気がするでしょ?

3歳児の持っている知識、スキル、経験の30倍より
30歳の持つ知識、スキル、経験の3倍のほうが
大きいように思いますよね?
(どんな30歳を選ぶかにもよるけど)

3歳児(部分)×30人=90(全体)
30歳(部分)×3人=90(全体)
同じ90になりますけど、
出るアイデアは30×3のほうが
深そうだ、というのは同意してもらえるはず。

まわりくどくなりましたけど、
3歳児の持っている部分の30倍より、
30歳の持っている部分の3倍のほうが、
全体としては大きくなりそうでしょ?

中身の濃さ、深みを考慮してください。

ここからホラーキーとホラクラシーの話に
戻ると、一個の組織で考えたときには、
それぞれの部分が大きいほうが、組織全体の
合計で大きくなるじゃないですか?

部分、というは、ひとりひとりのことです。

そう、つまり、あなた自身です。

あなたが「大きくなる=進化・成長する」ことで
所属している組織の拡大にもつながる。

ちなみに、ここでいう組織とは、
「働いている会社」だけではありません。

家族、地域社会、国、世界的な意味でも。

と、同時に、
あなた自身も「全体」です。

これが一番、忘れられがちなところ。

あなたはいろんな組織、役割の中で
部分でもあるのですが、同時に
あなたはあなたとして全体なのです。

あなたは、あなたという一個の存在として
成り立っている。

組織、社会に属してはいるけど、
そこに無条件に従う必要はない。

山ごもりして、誰とも会わず、
ひとり静かに隠遁生活をする自由も
あなたにはあるわけですよ。

家族が、子どもがいるからできない、
とかいう意見もあるでしょうが、
それらを投げ打つ自由も、本当はある。
(したいか、すべきか、は別として)

話が極端になりましたけど、
自分がどう生きたいか?ってことを
立ち止まって考えてみてはどうか?
ってことなんです。

自分がヒエラルキーの「部分」でしかない、
という現実を飲み込んだ上で、自分自身が
「全体」でもあるのなら、どうするか?

抽象的な質問ですが、考えるのには
いいタイミングかもしれませんよ。

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