いじめの悲しい現実

須賀です。

「いじめ」という言葉を見て、聞いて
どのような印象を持つでしょうか?

ひどい、と思う人が多いと思います。

オリンピック選手への誹謗中傷とか、
問題になってました。

でも中には、
いじめられる側にも原因がある、
なんて言う、思う人もいますよね。

ニュースになったダイゴさん、
学生時代はいじめられていたそうで、
それがいじめる側になったら、
逆にいじめられる状況になってるようで。

いじめられた過去があるから
どうのこうのはあるかもしれませんが、
関係がある場合もない場合もある。

負の連鎖という感じもしますけど、
因果応報とかいうのも、なにか違う。

いじめって、
悲しい現実なのですが、
どうやってもなくならない。

これは橘玲さんの『スピリチュアルズ』にも
そんなようなことが書いてあります。

人間社会の闇というか、
システムエラーみたいな、
そういう側面もあるのかと。

社会を、コミュニティを維持するために
どうしてもいじめが発生する矛盾のような。
(攻撃の対象を作るというかなんというか…)

二項対立の図式にすれば、
共通の敵に立ち向かう人々の結束力は
強まるというののもあり。

マーケティング、コピーライティングの
世界ではよくやる手法でもあります。

だから、マルクスは、
「在來一切の社會の歴史は、階級鬪爭の歴史である」
と最初に書いたのかもしれない。

かくいう僕だって、
いじめる側になったこともあるし、
いじめられる側になったこともある。

いじめが原因で自殺してしまう、
そういう子たちのことについては、
ただただ悲しいと思います。

「死ぬ前に誰かに本気で助けを求めろよ!」
という大人の意見もありますが、
大人の世界と子どもの世界は違うもので、
子ども経験のある大人でもわからない。

成人発達理論ってのがあって、
それを勉強すると、自殺にまで至ってしまう
ステップというか、その心境がなんとなく
わかるかもしれません。

簡単に言うと、
所属しているコミュニティの中に
自分の居場所がないとなると、
生きている意味がない、死んだほうがマシ
みたいになってしまうらしいのですね。

大人が考えるより短絡的に。

逆に、
ここで転校するとか、環境を変えると、
イキイキと生活を楽しめるようになる
ということもあるそう。

所属しているコミュニティの中での
パワーバランスというか、位置づけの
感覚がポイントになっている感じ。

だから、大学デビューじゃないですけど、
高校まではパッとしなかった人が
大学に入って人間関係のリセットを機に
一気に開放されていくみたいなことがある。

でも、目立ちすぎると裏で叩かれて、
とかね、結局そういうのも起こります。

残念なんですけど、
子どもでも、学生でも、大人になっても、
いじめって、なくならない。

なくならないでしょ?

自分にはいつも笑顔で優しいおばあちゃんが、
お母さんには壮絶な嫁いびりをしている、
なんて状況だってあるわけだし。

いじめがなくなることはない。
人間ってそういうものだとあきらめるしかない。

自分だって、いじめる側になることがある。
意識的にそうしないとしても無意識的に
そうなってしまうことがあるわけです。

だとしたら、どうしたらいい?

理不尽にいじめられている人がいたら、
救えるようになるといいのでは?

人をいじめるようなタチの悪いヤツは、
どこにでも存在しているわけです。

そういうのを矯正しようとするのではなく、
(エネルギーの無駄になるので)
おかしいと思える人が勇気を持って、
「やめろ」と言って止めることなのかと。

そういう勇気を醸成することも
ひとつの教育として必要かもしれない。

また、人それぞれ、
みんな違って、みんないい
というのが僕の信条ではあるのです。

あの人はあの人で、私は私である。
それでOKなのだということ。

みんながみんな同じである必要はない。

あの人が自分と違う行動、思想だからといって、
攻撃して、ねじ伏せようとしなくていい。

しても意味がないんじゃない?

まずはここがスタート地点。

で、あくまでここはスタートであって、
次の地点は、この言葉↓の通りかと。

「単にわたしたちは互いに異なっていることを確認するだけでは、充分ではない。わたしたちは、さらに一歩進んで、多くの点で、わたしたちは同じであることを見ること、それを始めることが必要である」
by ケン・ウィルバー

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